桶垂流考〜桶を動かす人たち


「恋は女性を美しくする。しかし恋を始めるには美貌が看板として必要である」
                              (Stendhal/French/1783-1842)


<序>
イキナリ、である。しかも毒入り。
世論を敵に回すような発言などナンボのもんじゃい、という仏国ならではの「恋愛論」。
このわずか30文字程度のフレーズが、多くの物事の核心をついている事は否定しようのない事実。「恋」とか「女性」を他の単語に置き換えても通用する見事な定理である。

桶を動かす人たちに取って人と組織、つまり人事組織論とはもっとも人間の本質に関わる分野。突き詰めていくと「人生とは何か」「人は何故桶に参加するのか」といった根本哲学に行きついてしまう。組織(オケやパート)、人事(運営スタッフや参加メンバー)に問題を抱えないオケはなく、その演奏会が終わった後の打ち上げや反省会などで「あーすればよい」「こーすればよい」といった対策案が講じられるが、結局何もしなかったり昔のやり方に収まったり、などと結局大して変わらないところへ落ち着く。
人間の本質は流行りモノのようにコロコロかわったりしないモノである。

冒頭のスタンダールの発言のように生まれ持った素質で勝負するのか、或いはあえて世間の荒波に揉まれる中で叩き上げられていくことを期待して今は堪えるのか、オケのスタンスはそれぞれだが、唯一の判断基準は充実した演奏が出来るかどうか。わずか数時間の演奏会で明暗がはっきりと分かるのである。残酷な瞬間である。
その瞬間をHappyに迎えるためにオケはその持て得る力を、メンバーを集め・指揮者の招聘・組織化と役割分担の明確化、そして練習に注ぎ、きたる演奏会に備えるのである。

そういった意味で、運営に携わるものとして、人や仕組みに関してイッチョマエに好き勝手物申してもご先祖様のバチは当たらんだろ、と思う今日このごろである。




「明日は、明日こそは・・・と人は其れをなだめる。
             その「明日」が彼を墓場に送り込む、その日まで」
                               (Turgenev/Russia/1818-1883)



<指揮者>
桶のモチベーションを良くも悪くも大きく左右するのがこの指揮者。
ポジティブへ持っていくことが出来れば「あの先生が・・・」とヨイショされ、ネガティブだった時にゃ「あの棒振りが・・・」等とボコられる訳である。

心理学における「メラビアンの法則」によると、話し手(指揮者)が聞き手(プレーヤー)に与えるインパクトには3つの要素があって、それぞれ55%がVisual(視覚・・・見た目・ルックス・視線)、38%がVocal(聴覚・・・声色・話し方・大きさ)、7%がVerbal(言語・・・言葉そのものの意味)と言われている。
本当のメラビアンの実験は上記趣旨とは若干異なるものだけど、「見た目より中身が大事」を真っ向から否定する学説として、ヴィジュアル系指揮者の精神的拠り所として存在する。だからと言って音楽に中身があるか無いかなんて、そもそも素人ですら合奏を何回と重ねていくうちに化けの皮がはがれて何となく感覚的にわかっちゃうし、そうなるとそっぽ向かれるものだから、指揮者という商売は難しい。

桶が求めているものを与え、桶に足りないものを補う。端的に言えばこの能力に優れた指揮者は大概桶と良好な関係を築いていると思う。同時に自分の音楽を大事にしつつも、桶そのものが主張する音楽を第一に考えてくれる。そんなかゆい所に手が届く的な指揮者が桶にとって最も好まれるタイプなんじゃないか、なと。そんな指揮者を捜し求めてか、次から次へと演奏会の度に指揮者を変えていく。次こそは、次こそは・・・。そのうち自分が桶からいなくなるかも知れんのに。

ま、個人的にはへんちくりんな事(一人弾きとかプルト弾きとか)させないで、楽器を構えさせてから多くを語らず、楽語の意味を聞いたりせずに、「君日本語わかる?」とか人格否定しないで、迷える子羊どもを温かく見守ってくれるような、そんな仏様のような指揮者を強くキボンヌ。
しかしながら、既に悟りの境地にお入りになられたご老体も考え物で、「そこはや〜んと」とか「ぱ〜んと」とか、まるで長嶋茂雄の如く「一茂!!そこは腰がクイっとクイっと」とか、「ガーッときたボールをグーッと引きつけてコンとスイング」、「ソコにバットある?あったら振ってみて。ウン。そうそう」(電話でアドバイスを求めた掛布に対して)なーんてのも困り者で、「昨日は遅かったんですよ。シャワー食べて、うどん浴びたらもう12時でした」なんて指揮者もお断りである。ネタとしては面白いが。



「まだだっ、たかがメインカメラがやられただけだっ!」 
                            (Amuro Ray/Gundam/U.C.0064-0093)



<コンサートマスター>
コンマス次第で桶はガラリと変わる。
「落ちナイ、残らナイ、飛び出さナイ」の3ナイを徹底し、演奏中にクレッシェンドの記号(cresc.とか<など)を見たら既にパワー全開仁王立ち、ふと忘れた頃にデクレッシェンド(decresc.や>など)を見た途端に急激に音が無くなる、なーんて事の無いよう統率力を発揮するなどして、桶のまさに音楽的拠り所として立ち振舞う必要がある。
またヴァイオリンパートの代表として、クソ難しい超絶技巧オンパレードのファーストヴァイオリンの技術的防御壁となってパート員を支え、ちょっと趣味思考が内向的ヒネクレ者でありながら、実は内弁慶で影では攻撃的人間の多いセカンドパートを上手くいなさなくてはならない。
そうやってヴァイオリンをまとめあげた上で、口うるさい大御所の多いチェロパートさまのご機嫌を伺いつつも子羊ビオラパートに睨みを利かせ、身も心も遠く離れたコントラバスパートと意味も無くアイコンタクトしてみたりしなくてはならない。
そして大概の場合、譜面やスコアの手配などの雑務をやらされたり、口臭/体臭が攻撃的な指揮者のお傍で常に待機させられたり、電話での出欠確認から人生相談、チューニングから打上げのイッキ飲みまで、音楽的なものから雑務までその業務は多岐に亘る。
しかも、その業務が「当たり前」と思われているだけにバツが悪く、弓順や練習日程、およびその曲順等ある程度好き勝手に出来るというオマケもその前では霞んでしまう。

オケ全体の融和を唱えつつも、選曲会議では安易な理由からモーツアルトやベートーベンを挙げるなどして、出番&音符争奪戦として全身全霊を持って選曲会議に臨む金管軍団から怨敵と見なされ、自分のソロがあるからという理由などでストバイ超絶技巧のオペラ序曲系を選曲に出してくる木管と喧々諤々の議論になり、タマには打楽器も数と音の暴力振るってみたいっス的にド派手なストラヴィンスキーとかプロコフィエフとかショスタコーヴィッチ、或いはオケ全員皆打楽器ブラザーズで現代作曲家を選曲に挙げる打楽器セクションと音楽的趣味の違いから喧嘩となりがちである。
正論、屁理屈、泣き落とし等のネゴに失敗し、メインプログラムにとんでもない大曲/難曲が決まってしまってもなお諦めずモチベーションをキープし続けることがコンマスとして肝要である。巨人軍のように「絶対にネバーギブアップしない」等と言ってはイカンのである。

とかなんとかいって、俺がコンマスになってつくづく感じたこと。
人柄と自信は人一倍。あとは人並みでよし。あとは背中が物語る。
哀愁と悲愴が漂う確率が相当高いことだけはよく分かるものである。

あとはガンダムのエンディングテーマよろしく振り向かないこと。だな。




「署名なしで発表すれば、天下にとどろいている傑作でも人は何といいだすかわからぬ」
                               (Tatsuo Hayashi/Japan/1896-1984)



<責任者/団長/インスペクター>
演奏会というオケにとっての一大イベント(ていうかこれしかない)を企画運営するにあたって、オケを一手に纏め上げる司令塔。
司令塔という言葉から「世界の司令塔ジネディーヌ・ジダン」と「日本の司令塔ヒデ・ナカタ」の違いを論じ、ひいては司令塔に必要な素質を明示しようとも考えたが、大体司令塔といってもそのカバーする分野は多岐にわたり、一歩引いた形のコーディネーター形であったり、先頭に立つリーダー形であったり、一番後ろからオリバー・カーンよろしくケツをたたくオカン形であったり色々在ってなんとも言い切れない。それに、同じ集団の司令塔といっても、プレーヤーの司令塔と、スタッフの司令塔では訳が違う。それゆえ論じることも難しい。だいたいジダンは頭突きを決めてやめちゃったし、ヒデ・ナカタもやる気なくして引退しちゃったし。
ヒデ亡き日本代表がしょぼく見え初めて、ようやっとヒデ・ナカタの偉大さを身にしみて感じる我々は、やっぱり主観ちゅう頼りがいのないものに振り回される生き物なのだな、とか思ったり。
ここの話題とは関係ないけれど。

演奏技術やセンスといった音楽面での貢献とは別にオケの中心で、舵取りをするスタッフ部門だけに「この桶はいったいどこへ行くのか?」てな事も考える。アマオケとはぶっちゃけ話マスターベーションな部分もあり、特に演奏することに関しては来年、5年後、10年後のことを考えて演奏するプレーヤーなんてあまりいないはず。それもそのはず、今ある目の前の曲を片付けねばならないからね。

桶を単発で終わらせず継続的なものにしていく為には、当然参加する団員のポジティヴな意思なくしては無理ゆえ、オケのビジョンを示してやる必要がある。安定した演奏会を行う為にトラに頼らず十分な団員数を確保する必要があるし、大きなプログラムのために十分な財力を蓄えておく必要があるし、アマオケとはいえ演奏会では多くのお客さんに来てもらいと思うのが常である。そういったことを考え次の一手、次の一手を打ち続けていく、それがこのポジションの仕事であると思っている。

と同時に、その他一般団員を引っ張っていく為の広告塔或いは旗振りとして、先頭切っていかにゃならない。その時こそ「肩書き」ってやつが強力な威力を発揮する。

その肩書きに相当するだけの人物であるか否か・・・ってとこが問題なんだがね。